30記事目は改めましての自己紹介

いつも当ブログをご覧いただきありがとうございます。
初めてこのブログをご覧になる方、どうもはじめまして。

2017年3月にはじめたこのブログもまもなく30記事を到達しました。
こんなに飽きっぽい人間が良く続いているなとほんとに思います。
少し記事が書き溜まったのであらためて、自己紹介と生い立ちを書きました。
今までの人生の棚卸しをかねて書きましたので、
ので、気が向いたら何回かに分けてどうぞお気楽にご覧下さい(^^;)

 

基本情報

名前:マッキー

年齢:33歳(2017年4月現在)

出身地:大阪府大阪市

在住地:和歌山県西牟婁郡白浜町

仕事:和歌山県白浜町地域おこし協力隊(主に日置地区担当)兼わかやまコンシェルジュ

 趣味

・ピアノ…幼稚園からのキーボードを含めると28年くらいにはなると思う。
 ※Youtubeに弾いてみた動画をアップしてます。もしよろしければどうぞお気楽にご覧下さい。→ 松井慎 - YouTube

・水泳…体育が嫌いだった僕が学生時代に出来た唯一のスポーツ。

ロードバイクでロングライド(夏場は、金曜日の夜から土曜日の朝まで走ってます。)

・スキューバーダイビング(5月中に復帰予定)

とまぁざっとこんな感じでつらつらと書いてみました。ここからは深く掘り下げて生きたいと思います。

ポンコツ人間誕生~幼稚園~小学校卒業

僕は、1983年12月12日に、両親の元から生まれました。兄弟はいません。
一人っ子且つ、父34、母37と比較的遅めに出産したため、可愛がられて育ったらしいのですが、自分ではそんな自覚は全くありませんww。

実は、幼稚園と小学校の頃の記憶はあまりありませんww
嫌な出来事の方が多かったので「忘れよう、忘れよう…」としていたら、ほとんどの記憶を忘れてしまいました。(卒業アルバム見たら思い出せますけどww)
特に幼稚園は始終教室で泣いていた(泣かされていた)記憶しかありませんww 多分いじめられていたんだと思います。

ただ、幼稚園のお遊戯の時間にピアノという楽器に出会い、親にねだって3オクターブサイズのキーボードを買ってもらいました。それから中二までずーっといろんな曲弾いていました。中二の時にそのキーボードが壊れたため、貯めていたお年玉をはたき両親からも出資してもらって、デジタルピアノを買いました。この時に買ってもらったデジタルピアノは20年愛用し、今は2代目のデジタルピアノが活躍中。たまにYouTubeに弾いてみた動画を挙げてます。(ユーチューブのリンク)
学生時代は暇だったので、半日以上ピアノに向かっている日もありました。
また、楽譜が読めなかったので耳にした曲をずっと弾いてるうちに、「なんとなこの音かなぁ~」程度に弾いているとくカタチになっていくスタイルで、今も弾いています。
耳コピっていうらしい??)

小学校は、ただただ給食がマズかったというのと体育が大嫌いということを鮮明に覚えています。
あと修学旅行では三重県志摩スペイン村に行ったことと、運動会で救護班をやっていたことは覚えています。このときにイベントの裏方で仕事をすることの楽しさを知りました。
通じて幼稚園でも小学校でも前に出て発言するような、活発なの子供ではなかったです。そして変わった子供でした。

 

自慢にならない変わった子ども時代のエピソード

小学校時代の僕は、今思うとちょっと変わってたかもしれません。
例えば、当時のクラスは周りのクラスメートが「ドラゴンボールZ」やヒーローもののアニメやドラマなどを見て、翌日その話題で盛り上がるというのが定番でした。しかし、僕はそういった戦闘ものや勧善懲悪な感じに違和感を感じたんです。どうしてかって??だって悪者は悪者なりの事情もあるし、だれも好きこのんで悪者に生まれたかったわけではないじゃないですかww、それにモンスターを撃退するために町を壊したりするんですよ!モンスター退治という大義名分をいいことに、正義の味方がビルにぶつかったり、モンスターが住宅街の上に倒れて壊したりして、人間の住居や働く場所を奪っているんですよ!!「それってヒーローって言える!?」って急に思って、自然とそういったものは見なくなりました。

よく見ていたのは報道番組でした。小2か小3くらいからテレビ朝日の「ニュースステーション」みてました。特に、選挙当日の「選挙ステーション」はもうお祭り騒ぎで放送終了(当時は深夜2時くらいまでやってたと思う。)まで見てました。今でも選挙時の開票速報は見てます。だって、あんな大掛かりな椅子取りゲーム&人気投票ってないですもんww
このころ「ニュースステーション」のキャスターを担当されていた、久米宏さんにあこがれてアナウンサーになりたいと思った時期もありました。しかし、勉強して比較的いい大学にいかないと行けない上、大学のほかアナウンススクールなどにも行かないということが分かり、実家の金銭的な事情があり大学に行かない人生を選んだので局アナにはならなかったけど、別な形で少し叶うことになります。が、そんな番組を見ていたので、「高校を卒業したら就職しよう」と思っていました。
あとはクイズ番組。「世界まるごとハウマッチ」とか「クイズ世界はShow byショーバイ」とかを見てましたww 今でも報道や昔のクイズ番組は好きですよ。

久米さんへの憧れがあり、小学校6年の春に放送委員に立候補しました。
業務は、放送委員になると当番でお昼休みに放送室から好きな曲を流すことができたんです。しかも自分がマイクの前に向かってMCとして話しながら、「ラジオの出演者みたい!かっこいい!!」って思って志願したのですが、応募者多数のためジャンケンで負けてなれませんでした。いまだにその場面を鮮明に覚えているから相当悔しかったのでしょうね当時は…。(^^;)

結局無難に過ごして卒業

 

少し花が開き始めた中学校時代

僕が住んでいた町は一小一中制、つまり私立中学に行かない限りそのまま同じ校区の中学に行くため、学年の顔ぶれはほぼ一緒。
上にも書きましたが小学校6年で放送委員になれなかったので、「中学に入ったら放送部に入ろう」と思っていたわけです。ところが、入学してみると放送機材を把握している先生がいないため、放送部が休部になっていました(><)

やりたいことが他にもなかったので、とりあえず園芸部にはいりました。
うちの中学は屋上に畑があったのです。きゅうりとかなすびとか植えて育てて、育った野菜を自宅に持って帰ったり、みんなで食べたりしました。
※田舎に移住した今となっては、もう少ししたら家庭菜園始めようと思っているので、この部活本当に入っててよかったと思いますw
で、中学はずっと図書委員をやっていました。昼休みに図書室開放があり、本当は当番でやっていたのですが、身体を動かすのが苦手なのでずっとお昼休みはずっと図書室にいました。3年間ずっと図書委員。うち1年半ほど委員長をさせていただきました。
委員長にもなると、毎週月曜日の全校集会で朝礼台に立って、図書室当番の班を告知するのですが、その時にマイクというものに触れて、人前でしゃべるということを緊張しながらも、覚えていきました。また、昼休みの図書室開放時当番に来ない生徒を、職員室の一斉放送マイクから呼び出す業務を、先生から委託(ご厚意)を受けて担当させてもらいました。
そういうことを経験すると、「今度こそ高校で絶対放送部に入ろう!」と決意していたのはいうまでもありません。

勉強が好きではなかったので、宿題はしましたが復習とかはしませんでした。ましてや予習なんて「なんで次の授業の時間でやることを今やる必要があるのか」がわかりませんでしたから(^^;)
ただ、先にも書いたように小学校2年ごろから「ニュースステーション」などの報道番組を見ていたのと、ユニークな先生のお陰で社会科系教科(地理・歴史・公民)は好きでした。
でその当時の報道番組を見ていると『この先景気が悪くなる。』『バブル崩壊で大学に行っても就職が困難になりつつある』などの話題が常に報道されていて、「これは大変だ!」と。子どもながらになんとなく「日本がおかしくなるんじゃないか?」と思っていました。それに勉強も好きではないし、両親からも「大学に行っても夢はかなわない。」「大学に行ったって結局『コネ』のある子には勝てないからね!」というような教えの影響を受けて、小学校3年から4年ぐらいに「高校を出たら就職しよう」と考えていました。
ただ、やりたいこともないなぁって考えていたころに、とある工業高校の情報技術科を中三当時の担任から紹介され「ITスキルはこれから必ず役立つし、自分の入りたい放送部もある!ここに行こう!」と決めて、工業高校進学を決めました。

 

花満開。人生のピークを迎えた高校時代

学生時代の中で、高校が一番楽しかったと思います。念願の放送部に入部してから人前でマイクを持って発言したり、文化祭でラジオ番組を放送したり、運動会で実況したり、、、人生のピークでしたマジでww
マジで行事も部活もクラスも何もかもが楽しかった。
この思い出を胸に高校で就職しようと高校3年の2学期まで思っていました。

しかし、残念ながら就職ができませんでした。自分の予想よりはるかに速いペースで、就職氷河期が到来してしまい僕はあちこちの会社を落ちてしまいました。

高校卒業後して一時的に無職になってからバイトなり契約社員なり探すことも考えたのですが、卒業前に進路を考え直すことに、、、
小学校5年の頃に阪神大震災があり、そこからの流れで空前の医療福祉分野のブームが自分の周りには続いていたのです。
(高校で覚えたパソコンスキルを、医療のどこかで活かせないか??)と漠然と考えているころに、丁度「電子カルテシステム」が開発完了され、導入を進める病院やクリニックが増えてきたことを知り、専門学校に行って医療情報や医療事務の勉強をすることにしました。「もう2年だけ勉強しよう」と誓って…。

 

立ち枯れた専門学校時代

専門学校の2年間は正直なことを言うと、、、目指した分野は間違ってなかったとは思うのですが、入学した学校を間違えたかな(^^;)と。
これは自分のリサーチ不足なんですが、工業高校時代のほぼ男子生徒オンリーとはまるで逆で、周りはほぼ女子しかいない環境、学科長の方針に(?)と思う部分もあり馴染めませんでした。
この2年間は自分の中では黒歴史です。いまだに後悔の念があります。
ただ、唯一よかったのは、僕が高校時代に放送部をしていたことで専門学校での運動会や卒業研究発表会などの行事で、先生から司会を頼まれたりしてました。
特に卒業研究発表会が地元のメルパルクホールの舞台に立って司会をしましたww
上級生たちの発表を舞台袖で聞きながら、先生からアナウンスしてほしいことなどが突発的に入ってきたり、即席で原稿にして次のMCで挟んだり…忙しかったけどその日はすごく楽しかったなぁww
また、社会に出てからほどなくして副業で色々な資格試験の試験監督員を始めるのですが、その出会いは専門学校2年目の冬のこと。
とある全国規模の資格試験で、うちの専門学校の校舎を試験会場として貸し出すことになり、補助員の募集案内を学内掲示板で見つけ応募して参加しました。
朝が早いのさえ我慢すればかなり高待遇でした。www それは後日又書きますね。

 

ポンコツ人間社会へ船出

そんな2年間が過ぎ、社会へ出ました。ちなみに、専門学校卒業時に就職が決まり、卒業後働き始めましたが、デイサービスセンター兼ケアプランセンターでした。
しかし、2か月で会社が潰れてしまいましたww
ぁどうしよう…となって、とりあえず運転免許を取ることに。運転免許取得の話はまた後日書いてリンク貼っときますねww
専門学校を卒業した年の12月に病院の医療事務の仕事に就きました。ここで放送部の経験が役に立ちます。

業務のローテーションによって、自分がその日会計担当だ、会計窓口に座って『●●様。会計までお越しください』とか、外来事務担当『●●様。血圧を測りますので内科外来までお越しください。』とかを話すのですが、ある日導入直後の電子カルテが診察時間中にバグってストップするというトラブルで止まってしまいました。

患者さんには復旧まで待ってもらわないといけない上、看護師・医師・同じ事務職の同僚もシステムには強くないためオロオロするばかり。そんな状況の職員・患者に今がどんな状況か説明しないといけないので、即席で原稿を書き院内放送ONAIR!

『ただいま電子カルテシステムに不備が生じ、診療をストップしております。復旧まで今しばらくおまちください。お急ぎのところ大変申し訳ございません。』みたいなフレーズを何度かマイクで読み上げ、復旧後に診療再開をする旨と、診察スタッフには診療再開の指示を業務連絡として出しました。正直、こんなところで役に立つとは思っていませんでしたww。
また、病院に勤める傍ら土曜のお昼から大阪市南部のとあるコミュニティFM局で番組アシスタント兼ニュースリーダーとしてニュースを読んでいました。この頃だけは

・試験監督をしながら
・土曜のラジオもやって
・月曜から土曜日お昼まで病院で働く

という3速のわらじを履いていました。若かったから出来たんでしょうね…(^^;)
その病院は1年半働くも、事務所内の人間関係にヤラれてしまい、実家の引っ越しを機に退職。なお、退職してもしばらくはFM局の出演は続けます。

引っ越しして1ヶ月後の10月から、お世話になっていたのは医学文献の複写納品サービスを取り扱っている会社でした。(出版社ではないです。)こういった業界は日本で3社しかないので、これくらいしか書けません。あしからず。
この会社に移住前の2016年までのちょうど10年お世話になりました。
医療事務といい、その次の会社といいどちらもカスみたいな給料で、生活できなかったので土日でいろいろな資格試験の試験監督のバイトを3社掛け持ちし、合計で2種類4社抱えて、月曜から金曜までは文献の会社で、土曜と日曜(特に日曜日)はありとあらゆる試験の仕事をしてました。ほぼ毎週末限り出来るだけ詰め込んでましたから、春から7月ごろと秋から12月半ばまでほぼ日曜日がない生活を12年間経験ww
その分稼いだし親孝行旅行も何度も出来たし、試験監督のバイトも楽しかったし、充実した生活を送っていましたww
でも…28歳を過ぎたあたりから、それだけでは埋められない心の穴空き始めました。むなしい思いに駈られることが多くなり、次第に疲れはじめました。

・転職を考える、、、それからの移住

2013年ぐらいに営業に関する研修を受けるため東京に1ヶ月かん生活しました。
しかし、自分には合いませんでした。自分は、相手に自分の話をする、営利的な意図をもって他人に話をするのはすごく苦手であるということに気づかされました。
高校の時に放送部でしゃべっていたスキルや、専門学校の行事での司会はすべて台本・原稿があってのこと。つまり大筋がちゃんと決まっているうえでの少々のアドリブは可能だが、全くアドリブの状態から営利的な意図をもって話すということにすごくストレスを感じ、結局その研修はドロップアウトしました。
しかし、得たものも大きかったです。生まれて初めて実家を離れて一人暮らしをしたのは、凄くよい経験になりました。離れてみると「あ、以外と見知らぬ土地でも暮らしていけるもんなんだなぁ」って。これがのちの一人暮らし・地方移住に繋がってくるわけですww

営業の研修がボツになり、大阪に帰ってから僕はとてつもなくマイナス思考に陥ってしまいました。(まぁ物心ついたときからの31年間は、ずっとマイナス思考でしたけど)
「僕はこの会社にいる資格がない」「僕はこの会社では役に立たない人材だ」「せっかく研修をしてくださったにもかかわらずこんな終わり方になってしまった。」と、、もうこうなったら徹底的に負のスパイラルにハマりまくっていました。
でも、ここで考えを変えてみました。「人生何年生きるか分から無し、いつ死ぬか分からないけど、そのうちのたった1ヶ月失敗したからといって、別に僕は犯罪を犯したわけじゃないし、この失敗を活かせる時がいつか来るかもしれない、これはこれとして受け止めよう。」と考えました。ただし、当時契約社員だったこともあり「転職はしよう」と決めて、いろいろな求人サイトを閲覧し始めました。

ところが、

前職の会社は、福利厚生的に超・超・チョウ!!!!が付くほどのホワイト企業でした。

残業代は出多分ちゃんと出るし、有休も同僚と日程さえずれれば取得できました。
健保の福利厚生もしっかりしてたし、本当に良い会社でした。
そんなぬるま湯につかり過ぎていたがために、求人票や転職サイトの求人のほぼすべてのどの会社を見ても、ブラック企業にしか見えなかったのです。たとえば

「入社時お祝い金10万円支給(^^)!」=(その10万円のはした金でその先どれだけこき使おうとしてるの?)とか、

「残業代ボーナスあり!」=(残業代にボーナスを出すほどの残業時間が発生する会社って??)

そうかと思えば、
とある会社の求人の資格欄には、

・医療業界の資格または医師免許
・貿易事務の資格
・簿記の資格
・ビジネス会計系の資格
弁理士
そのすべてを持っている人。。。みたいな…

「そんなやつおらへんやろぉ~。」 と思いましたが、都会って人数が多いから数打てば当たるというわけではないけど、素質を持った人って必ずいるんですよね。
そうなると僕は勝ち目ないなと思ったんです。

それだったら、「勝てなくてもいい、誰かと比べなくていい。自分が自分らしく生きていくにはどうしたらいいんだろう?」

みたいなことを考えて、あーでもないこうでもないってやってるときに、
ふと疑問に気付いてしまったのです。

「あ!僕は当たり前のように大阪で軸を置いて転職先探しているけど、本当にそれでいいのか?」

「大阪で転職先を見つけたということは、結婚も大阪でして、子どもが出来たら子育ても大阪でして、近い将来くるであろう両親の介護も大阪で面倒を見ようとしているけど、本当にそれって幸せなことなんだろうか?自分のライフスタイルに合っていることなんだろうか??」と。

そんな折に、両親から「将来的には田舎で落ち着いて生活したい」という想いをかねてから聞いており、、 もし、自分の生きていく場所が大阪(都会)以外の場所にあるのかもしれない。
それだったら日本のあちこちの「自分の生活場所候補」を探してみよう!
と思って、ふるさと回帰支援センターの大阪オフィス「大阪ふるさとくらし情報センター」に足を運んだのが2014年でした。→|大阪ふるさと暮らし情報センター

 

初のプチ田舎暮らし

上記のような考えに行き着いたので、一度短期間でもいいから田舎に身を置いてみようと思い、愛媛県忽那諸島の中島にある、現地のNPO法人がやっていた「島に住む」というワークショップへ2泊3日で行きました。(NPO法人農音 
自分はそれまでの人生を、セカセカアクセク大阪のペースでやってきたため、
時間や住んでいる人たちのゆるーいペースに合わすのが、凄くストレスになるんじゃないかと思っていたのですが、実際に行ってみると「このゆるさいいなぁ~」とはまってしまいましたwww
それからあちこちの場所へ移住下見ツアーで足を運びました。
※各移住支援自治体が開催しています。

和歌山の色川、高知県土佐市岡山県久米南・津山・美咲町などなど…。僕自身寒いところが苦手のため雪が降っても積もらないところ、そして人も気候も暖かいところを探していました。

運命の出会い

僕はいろいろな出会いや考えをまとめて、この度ご縁があった、
和歌山県西牟婁郡白浜町に移住をしたわけですけどもこの移住、結構バタバタと決まりました。時系列でまとめます。

2016年8月最後の土曜日に大阪ふるさとくらし情報センターで和歌山県の移住相談会がありました。この時はアウトドアライフがテーマ。
その時に温泉と観光で知名度のある白浜町が来ていました。
会場で担当者といろいろお話していると「地域おこし協力隊」の募集を知りました。
そこで知ったことは
・教育旅行(民泊事業)に関わること
・移住支援についてのこと
・採用者は、白浜と言っても旧日置川町の担当として働いてもらうということ
を告げられました。

2016年8月最後の土曜日に大阪ふるさとくらし情報センターで和歌山県の移住相談会がありました。この時はアウトドアライフがテーマでした。
その時に温泉と観光で知名度のある白浜町が来ていました。
会場で担当者といろいろお話していると「地域おこし協力隊」の募集を知りました。
そこで知ったことは
・教育旅行(民泊事業)に関わること
・移住支援についてのこと
・採用者は、白浜と言っても旧日置川町の担当として働いてもらうということ
を告げられました。

現地見学をすることに

9月中旬に業務及び日置地区の様子を見に現地へ足を運ぶことにし、会社に有休をもらって現地へ見学に行くことにしました。
第一印象は自然しかないと言っていいほど、すばらしいところでした。そして、団体専門の教育旅行、つまり小・中・高校の修学旅行や自然学習旅行およびインバウンドなどの外国人の団体教育旅行など、人と関わる仕事ができることもさることながら、未来の世代に関わることが出来る、すごい面白い仕事だと思ったのです。

 

移住スケジュール

現地見学した帰りの高速バスで、応募書類の一つのレポートをスマホのメモ機能を使ってダダッと書いて、その他の書類も取り寄せ、9月末までの提出期限より1週間も早く郵送。

2016年10月初旬に書類選考通過の連絡を頂く

同年10月中旬面接を受けて下旬に合格の連絡を頂く。
合格の連絡を頂いた2日後に当時勤めていた会社に退職を伝え、そこから移住準備がスタート。

白浜町が仮押さえしてくれている空き家バンクの物件から1件選び、住めるように、自分と両親の力を借りて整えていきました。

2016年11月と12月に合わせて計4回ほど、それぞれ1泊2日ずつ。
それぞれの滞在では、ペンキを塗ったり、台所に棚を作ったり、掃除をしたり、ダニを殺す薬をまいたり、電気の配線をチェックしたりしておりました。

そんなこんなな多忙な日々を終えて、ついに

2017年1月6日に引っ越しの日を迎えて、長年住み慣れた大阪を離れ和歌山の僻地へ移住を完了したのです。

つまり、2017年8月の末に白浜町の移住担当者と出会ってから、4ヶ月というハイスピードで移住しました。
ふるさと暮らし情報センターの方が「決まったら(引越しが)早いよ」というのを聞いていて、ずっと「ほんとにぃ~?」と思っていたのですが、本当に早かったですww
マジでビックリしました。

 

移住して思うこと…

概ね、「移住してからのほうが幸福感が増した」という一言に尽きるともいます。
何気ない人の親切がすごく「有難い」と思えたり、他人から僕に何かをしてくれたり、例えば物をもらったりしたときに、「今度は僕が何かをしてお返ししよう」と思えるようになりました。(とはいえ、そんなに頻繁にモノをもらったりあげたりする習慣はないけどね(^^;))

でも、まだまだ自分も地域に溶け込めれてないし、地域のことを学習していかないといけないです。自分に課せられた仕事もあるし。でも今のところ、心の底から、「概ね幸せだなぁ…」とつくづく感じます。あとは金銭的な部分をなんとか増やせればと思います。

先で、高齢になる両親も呼べたらなと思っています。
和歌山県下の大きな病院はすでにリサーチ済み)

と、これまで僕が生きてきた33年間の人生を棚卸してみました。
長くなって恐縮ですが、今回書くことで人生を整理できた気がします。
今の目標というかスタンスは「移住生活を頑張り過ぎずに頑張る!そして楽しむ。」をやっていこうと思います。そして、また歴史が溜まったら、この自己紹介ページを更新していこうと思います。

 

どうもごらん頂きありがとうございました。お疲れ様でした。
それではみなさん!せーのっ!!!アデュ~!!!(^^!)